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浅野順子とブルージーンズ それは、名もなき映画のように

浅野順子とブルージーンズ
それは、名もなき映画のように

2025.12.19 STORY

CONTENTS

おしゃれをするのは誰のため?
愛しきいつかのモダン・ガールたちへ
知った痛みと得た強さ
芸術観、そして人生観

大きなキャンバスに筆を走らせているときも、撮影現場に現れるときも。いつだって浅野順子さんは青いデニム姿のままで、飾らない自然体。75歳を迎えた彼女ですが、屈託なく笑うその様はどんなユースよりもポジティブでエネルギーに満ちています。けれど、その人生は決して平坦なものではなく、彼女がにこやかに語った過去は時としてどんな台本よりもドラマチックな人間模様を呈していました。幾多の経験を経た今も、その輝きが褪せない秘密と、そんな彼女がジーンズを愛する理由。さながら銀幕のようなその生き様を、ひとりの女性は振り返ります。

PHOTOGRAPH : Yoko Takahashi
EDIT & TEXT : Rui Konno

おしゃれをするのは誰のため?

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―ジーンズが似合う、スタイルある女性として真っ先に浅野さんのイメージが浮かんだので、MOMOTARO JEANSに袖を通していただけたことすごく嬉しく思っています。

ありがとうございます。私、昔から本当に毎日デニムなんですよ。古い写真を見返してもそうだし、子どもの小学校の授業参観にもヘソ出してジーンズで行ってたくらいでした(笑)。

―それはすごく目立ちそうですね(笑)。

だから、一番後ろの席に座ってた知らない子に「変なの!」って言われたりして。余計なお世話だよね(笑)。他のお母さんたちはハンドバッグ持ってジャケットとか、そんな感じだけど、そんな格好で行かなきゃダメっていう規則でもあるの? って。

―確かに別にそんな決まりはないですよね。それは(俳優の)浅野忠信さんが小学校のころのお話ですか?

そうそう。お兄ちゃんのほうには「友だちのお母さんはみんなエプロンしてご飯つくってる。僕もエプロンしてるお母さんが良かったな…」って言われたこともありました。でも、「ママはこれ(デニム)がエプロンなの」って言ったりして。

―言ってしまえばどちらもワークウェアですしね(笑)。浅野さんがデニム好きを自覚されたのはいつごろだったんですか?

もう、子どものころからですね。私は母が明治の生まれの人だったんだけど、父親がアメリカの人だったから。進駐軍の料理兵で、母に会ったのは横浜に赴任していたときで。それで、向こうには1歳児くらいから穿けるようなジーンズがあって、本牧なんかにもスリフトショップがあったの。そこではみんなが寄付していったものを安く売ったりしていて、ベビーカーもあれば、もちろんジーンズもあったんです。それで私も自分が子供を育てるようになって、忠信なんかには1歳ぐらいから子供用のリーのジーンズを穿かせたりしていました。後ろにゴムが入ってるようなものじゃない、本格的なやつを。それに革の編み上げのブーツとかでもアメリカものだと子供用のがあったから、そういうのを穿かせて。

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―浅野さんもですけど、忠信さんの洒落者としてのルーツを垣間見られた気がします…!

それでも当時は子供だから、やっぱり気持ち悪いのかズボンはグッと上げたくなるじゃない? それを「ここ(腰骨)で穿いてちょうだい。それが一番格好いいから」って。そのときのことはいまだに忠信には言われますね(笑)。

―おしゃれの英才教育ですね。

やっぱりおしゃれは楽ばっかりしていてもダメよね。面倒くさいとか、手がかかるとかって言ってるばかりじゃ。あのころの忠信は子供だったからああいうふうに言ったけど、おしゃれって自分のもので、人に言われてするようなものじゃないはず。今はみんな見本があるから、雑誌を見たりして自分も同じものを着ればその人みたいになれるんだと思ったりしがちだと思うけど、それは大きな間違いで。真似が良くないっていうんじゃなくて、そこに自分の知恵を乗せないと借りてきた衣装みたいになっちゃうじゃないですか? デニムも長さが合ってなかったり、色が自分に合っていなかったりとか。だから、やっぱり自分に似合うものを見つけることが、まず最初なんじゃないかなと思います。

―すごく大事なことですね。浅野さんご自身は特にお好きなデニムの色合いとかってあるんでしょうか?

いえ、私はいろんな色のを穿きますよ。今日みたいな濃いブルーも好きだし、インディゴがかなり抜けたジーンズも好き。この形だったら色が落ちてるほうがいいのになと思ったやつは買ってきてすぐでもガンガン洗っちゃいます。古くなったデニムを夏だからって理由で短く切ったり、逆にジップを付けてつなげて長くしてみたりとか、自分なりにリメイクしたりもしますしね。

愛しきいつかのモダン・ガールたちへ

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―ご自身で洋服に手を加えることはこれまでに何度もあったんですか?

はい。私は40代のころに古着屋をやっていた時期もあったから、そのときは自分でリメイクしたものを売ったりもしていました。もともと19歳、二十歳くらいにはもう自分でやってたんじゃないかな。そのころ横浜のインターナショナルスクールでパーティがあったりしたんですけど、そこでは男の子たちがエスコートしに来て、女の子はドレスを着ていかなきゃいけなかったの。男の子が持ってきた花を胸に挿して。でも、私はお金がなかったからそういうワンピースなんて買えなかった。今みたいに安くておしゃれな服がすぐ手に入るような時代じゃなかったから、自分でつくるしかないわけですよ。それで端切れを買ってきて、友だちのミシンを借りて自分で縫うの。安いヒールの靴を買ってきてそこにも端切れを貼って共布にして。バッグもお母さんから着物用のバッグみたいなものをもらって、それを自分でリメイクして行ってました。

―すごい! そうやって若いころから工夫されてきたぶん、浅野さんにはアイデアが増えたんでしょうね。

うん、生きてく上で工夫は絶対に必要だと思う。どんなに物が豊富になっても、どんなに満たされても工夫とか空想することを忘れちゃダメよ。そうしないと、進んでいけないから。

―浅野さんは高校を中退されているとお聞きしましたけど、あの時代の横浜で若い女性がひとりで生きていく、ましてや個性を大事にして格好良くいるのは簡単なことではなかったんじゃないでしょうか?

でも、私は結構ひとりでもいろんなところに行けちゃうタイプでしたよ。それにそのころ私にはサリーっていう友だちがいて、どの女の子もだいたいそんなふうにふたりずつのカップルで遊んでた。それで、みんなが集まるとグループになって、それがクレオパトラ党になったの。

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―山口小夜子さんなどの有名なモデルさんも排出した女子グループですね。そういう方たちが浅野さんにも影響を与えられたんですね。

そうね。でも当時の友だちはほとんど死んでしまって、残ったのは私と何人かの友だちだけになっちゃったけど。小夜子さんは本当に優しくて素敵な人でした。美の意識の強い人で、人から見られてる自分っていう存在がもう終わることをに自分で気づいてたんじゃないかなって思うの。自分が死ぬときを知っていたのかなって。

―言葉が出ないですね…。でも、きっとスタイルのある人同士だと、やっぱり仲良くなりやすかったんじゃないですか?

でも、私は横浜でずっとサリーとつるんでましたけど、知り合う前は別の女の子の友だちと遊んでたの。中華街にあったお店で私たちが踊ってたら、知らない女の子たちが5、6人入ってきて。「何、真ん中で踊ってんだよ?」みたいに睨んできたんだけど、私は痛くも痒くもないから無視して踊ってたけど、まぁ空気はバチバチだったのよ(笑)。

―(笑)。

でも、みんなが「やめときなよ」とかって言うし、とりあえずその日は帰ることにしたの。それで翌日、当時私が付き合ってたミュージシャンの彼氏が「明日、友だちが彼女を連れてくるから君も一緒に行こうよ」って言うんで元町のレストランに行ったら、そこに昨日の女の子のひとりがいて。彼氏が言ってた友だちの彼女っていうのがその子で、それがサリーだった。お互い「あっ!」っていう顔して、「昨日、ケンカしそうになったよね」って笑って。

―映画みたいな出会いですね!?

そこからは気が合ってつるんで毎日一緒にいるようになったんです。もう、そのあとは1年ぐらい家に帰らなかったんじゃないかな。

―青春群像劇みたいですね。浅野さんもサリーさんもそのころゴーゴーガールをされてたんですよね? ディスコの前身というか、そういう場所で。

うん。当時は’70年代で、私がいたお店はちゃんとオーディションがあって社長にも気に入られなかったら働けないようなところで。その代わり給料も良かったし、後で有名になるようなバンドの人たちも結構出てたの。私たちダンサーはそのバンドの音楽に合わせて踊っていたから。だけど、始めたころはまだ衣装もないし、いいものを買えるほどお金もないからやっぱり全部自分でつくってましたね。

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知った痛みと得た強さ

―本当に若くしていろんな経験をされたんですね。

私は昔から誰とでもフレンドリーだったから。転校も多かった子どもだったのにね。横浜育ちだけど神戸にも行ったし、小学二年生くらいのときには三重の津市にも行きました。そのときは石を投げられたりしましたね。「合いの子だ」って言われて。

―外国にもルーツがあるという存在も今以上に珍しかったでしょうし、偏見も酷かったんでしょうね…。

私はその石を拾って投げ返してやりましたけどね。痛みがわからないからそんなことができるんだろうから、それならわからせてやろうと。

―浅野さんは小学生のころからパワフルだったと(笑)。

うん。でも、イジメとかって、本当に自分がその痛みを知ってたらそんなことはしないと思うんですよ。私は母親が毅然とした人だったから、その影響もあると思います。明治生まれで、ましてや芸者さんをやってたような人だったから。私が父と過ごしたのは本当に小さいころだけで、軍曹だった父がアメリカに戻ることになって、母より10歳以上若かった父はこれから戦争に行く可能性だってあったから母は「この子を守り切れるのかな…」と思ったのか、一緒に行くのを断念したんです。だけど、母から父親の悪口を聞かされたことは一度だってないの。「本当に優しくていい人だったのよ。でも、私があなたの暮らしをこんなふうにしちゃったの。ごめんね」って自分が悪かったかのように言うわけ。だから私も父親のことを恨んだことは一度もなかった。

―以前にテレビのドキュメンタリー番組が忠信さんとご家族にフォーカスされたときにおじいさん、つまり浅野さんのお父さんについてもいろんなことが明らかになっていましたね。

はい。結局父は1992年に亡くなっていて。だけど、死ぬまで私の小さいころの写真を肌身離さず持っていたそうで、やっぱり本当にそういう人だったんだなって思いました。やっぱり大人になったら色々あるけど、たとえ親がどんなにケンカしたとしても、それはやっぱり子どもにはなんの関係もないから絶対に悪口は言っちゃダメね。それで離れ離れになることになっても「素晴らしい人だったのよ」って言ってあげてほしいなって思います。

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―経験からくる言葉にはやっぱり重みがありますね。浅野さんは生い立ちも含めてすごくミステリアスな感じがしていましたけど、少しだけ輪郭が見えてきたように思います。

少しはそういう部分もないとね(笑)。でも、以前の彼氏によく言われましたよ。「君は全部話しすぎだ。ミステリアスな部分があるからいいんだよ」って。

―それは画家だったという方の言葉ですか?

そうそう。60代で出会って、10年一緒にいました。ケンカをするとずっと壁に向かって難しい顔をしてるから何やってるんだろう? と最初は思ってたんだけど、しばらくして「君の言った一言に、僕は1週間悩まされた」とかって言うんです。芸術家ってみんなこうなのかな? って(笑)。私とまったく違ったから面白かったけど、変わった人でしたね。

―すごく内省的な方だったんですね。

私はそんな彼がお酒を飲みながらタバコを吸って、窓の外を見ているその姿が好きだったんです。所作が本当に美しくて、街角でふと座っているあの姿を見ただけだったとしてもきっと惚れてたと思う。座ればピアノを弾くわ、ギターを弾くわで歌も上手いし、本当になんでもできちゃう人だった。もともと私も絵を描いたりはしていたけど、もっと描きたいなと思うようになったのも彼の影響だったし。だけど、私は学校に行っていたわけでもないからなんでもありなわけ。それが彼にとっても新鮮だったみたい。そうやって刺激しあってたと思います。恋愛ってやっぱり自分を、人生を変えてくれるから。

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芸術観、そして人生観

―素敵な考え方ですね。今壁にかけてある絵は最近できたものですか?

そうですね。まだ発表はしてないんですけど。主にアクリルで描いていて、赤と白と黒、あとはブルーの絵の具もすぐなくなります。次に展示をするときはこれと同じ大きさのやつを全部で6点と、誕生日に100号サイズのキャンバスをもらったからそれは楽しみながら描いていて、それくらいの大きさのものを2点ぐらい出そうかなって。あとは携帯に指で描いたりしてる絵は毎日3つぐらいインスタグラムに上げてます。

―浅野さんの描かれる絵には人物のモチーフが多く見られる気がするんですが、それは意識的なものですか?

確かにどこかに人物が入りますね。私、きっと人が好きなんだと思います。ただ、こういう性格だから毎日気分が変わるし、今と15分経ったころの私でも違うんです。それが1週間も経つころにはもうこの絵じゃないなって思って塗りつぶしたり。あんまり執着心がないというか、どんどん変わっちゃう。

―展示をやるのは区切りとしても意味があるのかもしれませんね。

本当は別に誰にも見せなくてもいいんですけど、それだと終わりがないから出来上がったらすぐ納品しちゃわないと(笑)。ずっと家の中で描いていたら、終わりなく描いていられちゃう。

―芸術と聞くと格調高く感じてしまいそうですけど、浅野さんはもっと自然体でそこと向き合っていますね。

芸術家ってなんなのかなって思うんです。基礎からきちっと勉強して美大を出て完璧、みたいなのが芸術なのかな? でも、私は芸術ってその人の個性だと思ってるから、こうじゃなきゃいけないとかって、他人が言うことじゃないと思う。その人は、何かを感じてそれを描いてるわけだから。もちろん私だって「何? この絵…」と思うときだってあるし、私の絵を見てワーワー言う人もいると思うの。「それは違うだろ」とか、ああだこうだと。それはその人が見てそう感じたことだからしょうがない。だけど、それは違うだとか、こんなの芸術じゃないとか、そんなことを言う権利は誰にもないと思うんです。ただ、あなたが好きだったり嫌いだったりするだけでしょ? って。

―明確な正解のない表現については見解や意見も様々だから難しいし、だからこそ面白いなと思います。

私は画家だった彼氏に「絵に失敗なんてないよ。塗りつぶして何度だって描き直せるでしょ」って言われて、本当にそうだなって。今は私も描いてるときは本当に無心。やっぱり芸術家っていいなって思うんですよ。本当に自由に生きてる。最高だと思うよ。もちろん、そのぶん苦悩もあるだろうけどね。私の絵はこれっていう題名があるわけでもなくて、見た人が感じたまま、自分の感性で好きに想像してくれればいい。見てくれた人が、楽しい気分になって帰ってくれたらいいなとは思ってます。

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―こうして浅野さんの人生を一緒に振り返ると、歳を重ねていくごとに本当に良い出会いがあったんだなとつくづく感じます。

やっぱり縁だからね。こんなにたくさんの人がいる中で、こうして私のところに今日撮影に来てくれて、知り合えたことだって本当にご縁だと思うし、そういうものを大事にしたい。それでせっかくなら一緒にいる時間は楽しくしたいなって思うから。私はそんな感じで長年やってきました。本当に周りの人に助けられてきたし、たぶん、それは私のこの明るい性格があったからだと思ってて。いつだって前を向いてるのが、やっぱり大事かな。

―すごく共感します。大変なこともあるでしょうけど。

やっぱり覚悟は必要だよね。だけど自分の人生なんだから、それさえ決めれば結構なんでも上手くいくんじゃないかな。人を傷つけたりしなければ自分の好きに、自由に生きていいと思う。ファッションだってそうだと思うしね。歳を重ねて守るものが多くなっちゃうと冒険ってなかなかできなくなっちゃうし、新しいことに手を出すのが怖くなっちゃう気持ちもすごくわかるよ。でも、そんなことを言ってたら何もできないし、自分を大事にしていて自分がいつも楽しければ、一緒にいる人も絶対に楽しいと思うから。

―きっと浅野さんのその考え方が、スタイルある人として周りに映る理由のひとつなんでしょうね。

自分はこうっていうのは昔からあったし、75年も生きてるからね。いい加減あっちこっちに左右されたりはしなくなるし、好きに生きさせてよって思います(笑)。そうやってこれた私はきっと運がいいんだと思う。母親にもたくさん迷惑をかけたけど、最期は介護もできたし、そういう意味でも悔いはないです。

―そう言い切れるのは素晴らしいなと、本当に思います。

やっぱり自分の人生、自分で褒めてあげなきゃ。だから、私はデニムが好きなんだと思います。自由で活動的で、自分らしさを一番出せるものだから。このデニムもこれから着ていって洗うほどに雰囲気も変わるだろうし、絵の具やペンキもたくさん付くだろうけど、私はそれも楽しみ。また、良かったら遊びに来てください。このジーンズが、いい感じになったころにでも。

浅野順子とブルージーンズ それは、名もなき映画のように
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PROFILE
浅野順子
1950年生まれ、横浜市出身。日本人の母と北欧系アメリカ人の父の下に生まれる。70歳を過ぎた今も現役のモデルとしてキャンペーンに起用され、60代でドローイングに傾倒し、画家としても活動している。俳優の浅野忠信さんの母としても知られている。

@junkowillma

Reported by…

今野 壘
編集者
1987年生まれ。インタビューを通し、国内外のデザイナーやアーティストから市井の人々まで、多くの個性と日々向き合っている。熱量の生まれる現場に足を運び、それを世に伝えることが本懐。

@ruik0205

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